2010年9月30日 (木)

いよいよ最後

とうとう最後の日なので、ネットカフェまで来るには来たが、何を書こうとも決めていない。

ただなんとなく、5年前と今とで私自身にどんな変化があっただろうか、と考えてみている。

5年前の春、八ヶ岳の農業学校に入った時点では、5年後の自分を思い描くことなどできなかった。極端な話、5年後に生きているかどうかも自信がなかった。「生きていけなくても、まあいいや」というぐらいの気持ちで――いいわけはないんだけど、どこかにそういう自棄に近いような気持ちがあって、都会生活に見切りをつけた。どこか緑に囲まれた場所で、独りでほそぼそと暮らしていける場所があったらと、漠然とした望みを抱いていたような気はする。

まさか、流れ流れた末に大分でパートナーを見つけることができるとは思ってもみなかったし、彼に影響されて自分も南の島を志向するようになるとは想像もつかなかった。どちらかといえば、冬は雪に閉ざされた家の中で、大鍋にシチューなどぐつぐついわせながら、糸を紡いでいる魔女のような老婆になった自分なら、面白半分に思い描くことができたのだけれど。

思えばそれまでは、25になった時は30の、30を過ぎる頃には35の自分を、期待をこめて思い描くことができていた。夫や子供という不確定要素がなかったから、仕事のスキルをあげることや人間関係を作ることなど、自分の能力さえ知っていれば、かなり見通しが立ったというのもあるだろう。だが40になる頃から、「いまが頂点で、あとは下る一方だ」という気がし始めた。それはもともとさして高くない私の能力がどうとかいうより、世の中が傾き始めていたからだ。

非正規雇用の人間が、少なめの収入と引き換えに多めの自由時間を手に入れることを選んで生きていける余裕が、なくなり始めていた。私が会社勤めをやめたのは90年代で、バブルがはじけたとはいってもまだ社会に富の蓄積が感じられた時代だったから、企業などに所属しない人間を遊ばせておく余裕が、まだ社会のほうにあったのだと思う。いろいろな働き方をしたが、週4日のバイト感覚で勤めた大学付属の研究所は、結構いい仕事ができたので長続きし、農業学校に入る直前まで足掛け8年ほどいた。だがその後規則が変わり、私のような1年契約の非常勤職員は「5年で雇い止め」、つまり5年以上は契約を継続しないことになってしまったと聞く。自分から辞めた私は、まあまあいい時代しか知らないということになるだろうが、逆に言えばそうした空気を感じさせる何かが、私の背中を押したのかもしれない。

いまも、週3日のバイトをしてはいるが、なんというか、日に日に世知辛く、けち臭くなっていく世間の風を思い知らされる。また、何かが私の背中を押しているのだ。今度は、南の島へと。

4日後には、沖永良部への二回目の旅に出る。移住へ向けて少しは話を詰めたいが、結局本当に決める権利を持っているのは、相方の唐沢氏だ。農業の経験から見ても、資金面から見ても、彼を頼みの綱としなければ生活できるわけがないのはわかりきっているから、この点では私はあっさり白旗を掲げている。唐沢氏が私に再度の旅を勧めるのは、急いで話を決めてこいというより、むしろ無駄足でもいいから、もっといろんなものを見て、もっと迷ってから決めろ、ということらしい。彼によれば、私は効率のよさを求めて寄り道をしなさすぎる、心に「遊び」がない、ということになるようだ。そんなわけで、帰りがけに奄美大島にも寄ってくる。以前(2004年頃だったろうか)、一度行ったことがあるのだけど、そのときは田中一村美術館と大島紬しか眼中になかったから、今度は別の目で見てこよう。

そんなわけで、どの島になるかはいまだに未定ではあるのだけど、離島で暮らすことになればネットカフェもないから、さすがに情報収集のためには自分のパソコンを買うことになるだろう。そうなったら、いずれブログも復活する日があるかもしれない。その頃には落ち着いて、何かはっきりとしたメッセージを打ち出せるような私になっているかもしれない。

このブログを読んで、コメントやメールをくださった方々には、復活の日にはお知らせを差し上げようと思う。その日があれば、また。

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2010年9月12日 (日)

猛暑いまだ終わらず

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今日は、九州でも場所によっては雨に恵まれ、気温もだいぶさがっているらしいのだが、大分は猛暑日との予報。

それでもたぶん今夜から明日にかけて、さすがに秋雨前線の影響を受けるだろう・・・そうでないと困る。なんだか体も心もぐったりしていて、バイトも畑仕事もいつも通りこなしてはいても、いまひとつ元気が足りない。

ブログも、今月いっぱいでやめると決めてしまってからは、書くこと自体少し億劫になってしまった。本当は、最後だからこそばっちり決めたいという気持ちもあるのだけれど。

どうせ個人的な「公開日記」にすぎないブログで、なぁにをばっちり決めたいのか自分でもよくわからないけれど、何か、うまく言えずにいたことのひとつでも書き残して終わりたい。

さて、書けるかどうか。

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2010年8月17日 (火)

猛暑の中で

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今年も藤色のシカクマメの花がさき、小さな四角いサヤが踊りだした。

ミニトマトも、去年はうちの庭ではまるでだめで、秋になってから杵築の唐沢氏からもらう一方だったが、今年はそこそこ採れだした。

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ただ、カラスに見つかってしまったので、鳥よけテープを張りまくっている。

去年の日記を見ると、もう8月半ばには秋ニンジンやジャガイモのための畝作りをはじめているのだが、今年の暑さではとてもそんな気になれない。少し涼しくなってくれないと、ニンジンだって芽を出してもすぐ焼け死んでしまう。

ほかに去年と比べると、キュウリやナスが全然取れていないといういのはあるが、そのかわりニラがあったり、春キャベツのつもりだったものを今頃食べていたり、オクラと花オクラは今年も相変わらずだし、シソやミョウガは生えてくるし、まあなにかと食べるものはある。

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あとはタケノコイモを、今年こそは、その名に背かぬ大きな芋にするぞ、と土寄せをがんばっている。

別府は海から風が吹くし、今住んでいる家はとある倉庫横の人家の少ない環境なので、エアコンの室外機からの熱風などとは無縁。おかげで、暑いとっても立秋前までは、夜になるとちゃんと涼しくなってあまり寝苦しくはなかった。それが暦の秋となってから、夜中も蒸すようになり、時々起きては水分補給するような夜がしばらく続いている。それでも昨日あたりから、少しましになったようだ。

それにつけても、南の島はいい。全国の天気予報を聞いていても、那覇の最高気温はたいてい32度くらい。島の上を風が吹き抜けていくから、熱がこもらないのだろう。人間の体温より高くなるようなことは、「都市気温」がかなり関係しているのだと思う。

沖縄や奄美諸島では、日射病には気をつけなくてはいけないだろうが、熱中症で死人まで出ることは少ないのではないだろうか。

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2010年8月 9日 (月)

島バナナ

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突然、鴨居からぶらさがるバナナの房。

この春に訪れた渡名喜島の上原さんから、届いたもの。

黄色くなったものから食べていくことになるのだが、唐沢氏の家に届いたほうはもう熟れはじめていて、次々に皮がはじけていくので、二人で大急ぎで食べている。もちろんおすそ分けもしながら。

今日の朝食も昼食も、バナナを主食に、サラダなど添えて、いきなり南国人のような食生活になった。

それにしても、一期一会の客に対して、こんな見事なバナナを2房も送ってくれるとは、島人の心の豊かさに敬服するばかり。

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2010年8月 4日 (水)

くるんくるん

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地這いきゅうりと赤オクラ、この夏の初収穫だが、どちらもくるんくるんと可愛らしくまるまっている。ネコ科の小動物が眠っているみたいだ。

長梅雨のせいでなにもかも縮こまっていたのだ。これからは背筋を伸ばしてくれるだろう。

沖永良部は思った以上にいいところだった。これkらじっくり、移住の可能性を本気でさぐっていくことになりそう。

でも今は、草むしりに必死!!

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2010年7月23日 (金)

夏の始まり

今週前半、長かった梅雨がようやく明けようとするころ、私は毎日のように杵築の彼の田んぼに通って、草取りに精を出していた。

イネの強敵はコナギという水草で、栄養繁殖で子株を作ってあっという間に増殖する。観賞用によく公園の池などに浮かんでいるホテイアオイの仲間だから、図鑑など見るとかわいい紫色の花が紹介されているが、花が咲くまで放っておいたりしたら、イネは一株も生き残らないだろう。

腰を曲げ、泥を掻きとるようにしてコナギを根ごと取る。「むずび庵」ではジャンボタニシが田の雑草を退治してくれていたから、この作業は去年はじめて覚えた。かがみっぱなしになるので、取れた草を畦に投げるなど、体を起こしたときにはなるべく腰を伸ばすようにする。田んぼの反対側から草をとってきた彼と、だんだん距離が近づいてきたとき、彼が土手の上を見上げているので、私もその目線を追うと、

「入道雲」

と、一言。夏が始まった。

しきりと、八ヶ岳の農業大学校にいた5年前の夏が思い出される。5年というのは、やはりひとつの節目ではあるからだろうか、などと漠然と考えていたら、同窓生の加藤さんからメールが入った。なんと別府に来ているというので、急遽、バイト出勤前に近くのベーカリーでコーヒーを飲みながらプチ同窓会となった。

加藤さんは農業大学校にくる前には東京の卸売り市場で働いていたので、野菜類の生産と消費の動向には詳しかった。リーフレタスなら売れ筋だとか、かなりしっかりと目標を定めて入学してきたので、夏が過ぎて農学校でやることがあまりなくなると、早く働きたいといって10月で卒業した。山梨の農業法人に就職し、地元の女性と結婚して子供にも恵まれ、そろそろ雇われてする農業ではなく自分のやりたい農業を・・・という時期に来ている。やはり、「節目」だ。

私も来週、「移住候補地」として沖永良部島を見てくる。去年の屋久島やこの春の渡名喜島を見てきて、自分はどういう島暮らしがしたいのかというイメージだけは、だいぶはっきりしてきているのだが、さて沖永良部はどうだろうか。

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2010年7月11日 (日)

自給率を云々すると・蛇足的結論

久しぶりにネットカフェに来た。

なにしろ、休みがあると田んぼの草取りやら、畦草刈やらで忙しかった。

日照時間が足りないので、作物の生育はいたって遅いが、売り物じゃないから焦る必要もない。いまだに小さなキャベツは、大きくなるのをいつまで待っててもしょうがないので、食べたくなったときに1個ずつとる。葉を1枚めくるごとにナメクジがいて、食べる前には丹念に洗わないといけないのだが。しかしナメクジは、葉と葉の間にフンをしまくっている割には、いったいキャベツのどこを食べているのだかわからない。這ったあとのヌルヌルを洗い落とせばいいだけ。不思議な気がする。

さて、5月頃にこのブログで自給率を云々してみて、自分はいったいどんな暮らし方を目指しているのか、というのが、自分でも少しずつはっきりしてきた。

とりあえず、私の理想と対極にあるのが、「換金作物しか作らない農家」だ。八農在学中に農家研修で行った家はそういうところだったので、お互いウマが合うはずはなく、どちらもあまりいい思いはしなかった。

せっかく農家なのに、換金作物しか作っていないとなると、その作物の卸売り価格に一喜一憂し、相場師みたいな顔になる。作物が売れて金になってくれなくては、自分たちの食べるものを買うことができないのだから、お金依存度100%とという意味ではサラリーマンと変わりない。

それでも、周辺の農家が米や野菜を作ってくれていれば、おつきあいを欠かさないことでゆるやかな交換経済は成り立つ。ただ、近年流行のグローバリズムが悪い方向に走ると、ある地域全体が一種類の換金作物を作るようなことになりがちだ。カネになる作物を一斉に作っていると、市場価格が暴落でもしたら地域みんなで貧窮するだろうに、と思うが、貧しさから脱却したい途上国の農村の人たちには余計なお世話なのだろう。だが私にすれば、今まで米とか芋とか、自分たちの生活を支えるものを作っていた農村が、大資本によるプランテーションでもないのに単一作物化するというのは、大変に怖い。

田畑でとれたものを、自分で担いでいって売れるような市場(いちば)は、たぶんどんどん減っているのだろう。輸送コストをかけても元がとれる値段で売れるのは市場(シジョウ)、それも「国際市場」だったりして、農民自身が自分の手で売りさばける場所ではない。貿易業者とか、輸出入を許可する国とか政府とかに頼らなくては、作物の現金化もできず、暮らしが成り立たない。つまり、農民自身の自給度は低下する一方ということだ。

グローバリズムの主張の一端には、「国どうしが貿易を通じてお互いに依存度を高めあえば、相手国の危機イコール自国の危機となるので、戦争をしようなどとは考えなくなる。だから、みんなで持ちつ持たれつの関係を結びましょう」というのがある。一理はある。ただ、それはあくまで国家間のバランスの問題であって、個々の農家が自家の自給率をあまり下げすぎるのは、面白くない。

何が面白くないといって、前に書いたアルマンゾ・ワイルダーの言うような「自由で独立した百姓」というものが、存在できなくなるからだ。百姓が、農作物をカネに換えてくれるシステムに楯突くわけにいかなくなれば、役所や政府や大資本の言いなりほうだいだ。実際、そうなった挙句、悲しい結末を迎える百姓はたくさんいるのだ。

昔から、農民は搾取されるものであり、自由とか独立などというほうが、近代以降の個人主義がせいぜいうまくいっていた時代に一瞬輝いた、花火のようなはかない夢だったなどとは思いたくない。書き出すと長くなるから、結論だけにするけど、つまり私の理想は、

「カネは必要最低限稼いで、あとは自分で作った(あるいは交換で手に入れた)うまいもの食べて暮らしたい」

これに尽きる。「自分で作ったうまいもの」というのが、作ったことのない人には伝わらないと思うけれど。他人にはうまくないかもしれないものでも、うまいのである。

現代の日本でもかなりレベルの高い自給生活をしている大森昌也さん一家の本『自給自足の山里から』(2005年、北斗出版)はたいへん面白いので興味のある方は読んでほしいのだけど、この大森さんが作って売っている天然酵母パンなんかも、たぶんうまいかどうかは食べる人によってまるで違うだろうという想像がつく。

そんなわけで、なんだか結論をつけようとしてかえってごちゃごちゃしたような気もするけれど、とりあえずここまでとする。

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2010年6月18日 (金)

びわとくわ

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Photo_2 先日、カネコ嬢とのコメントのやりとりで、「日本の童話や昔話の中に、おいしそうな食べ物がでてこない」という感想を述べた。自分の幼少期の印象では、日本のお話の中で出てきたおいしそうな食べ物はたいてい洋風である。ケーキとかパイとか、スープとか・・・

だいたい子供のころ、日本の甘いものに欠かせないあんこが苦手だった。特にこしあんの、べったりした甘さは今でもあまり好きではない。つぶしあんのアンパンなどは、今では好物だけれど。どうも日本の食べ物、特に菓子は、子供にとっての魅力という意味では西洋に大きく負けている気がする。

日本に、子供にアピールする甘いものがなかったわけではない。六月はまさに、びわやくわが熟れる時期であり、人からもらったり摘みにいったりして、天然の甘さに酔っている。

びわもくわも、昔から日本にあった食材だと思うけれど、食べきれない分をどうにかしようと思うと、やっぱりジャムになる・・・パンケーキにつけたり、ヨーグルトに入れたり。和食では、なぜこういう食べ方が発達しなかったのだろう? 砂糖が貴重だとしても、甘い果物はそれ自身の果汁でじっくり煮詰めるという方法だってあるのだが・・・ひょっとして酒にしてしまってたのかな。

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2010年6月 3日 (木)

植物が教えてくれたはず・・・?

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4月19日に書いたとおり、コリアンダーが勝手に育った近くに蒔いてみたホウレンソウ。

「仲良し植物」のコリアンダーが元気なんだから、きっと・・・と、期待したのだけど、あにはからんや、本葉が数枚出たと思ったらもうトウが立って花がつき始めてしまった。今までもそういう傾向があったけれど、これはまた、かつてないほど早い。食べるとこなどかけらもありはしない。

いや、でも、同じ記事に書いた小松菜も、もとはこんな感じで早々にトウ立ちしてしまったものからこぼれた種が勝手に発芽したもの。いま、味噌汁におひたしにと、重宝している。

だから、このホウレンソウも、いま「種まき」をしているのだ・・・と、考えることにしている。

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2010年5月24日 (月)

自給率を云々すると・その4

さて、そろそろきりあげたい自給率の話。

「自分の食べるものを自分で作る」割合を少しでも増やそう、というのを当面の目的としているというだけで、「仙人みたいな生活をしようとしている」とか、前回書いたように「無人島で一人でやっていけるつもりか」という反応をする人がいる。それは何故なのか、なんて理屈で考えると長くなるだけで結論が出ないから、ちょっと別の話を。

ローラ・インガルス・ワイルダーの『小さな家』シリーズといえば、それを読んで農家の生活にあこがれちゃった人も多い、アメリカ開拓農民の生活体験から生まれた読み物である。発表当初からローラがなくなってしばらくたつまでは、一字一句がローラの記憶によって書かれた「事実」であると信じられていたようだが、いまでは、ローラの娘ですぐれた文筆家であったローズ・ワイルダーの手助けなしには成立しなかった、「事実にもとづいた小説」であることがはっきりしている。だいたい、ローラと結婚するアルマンゾは、本の中ではローラより3~4歳年長ということになっているが本当は10歳上だったという事実だけでも、主な読者層である少年少女やその親たちに受け入れられやすいよう、よく考えて事実を組み立てなおした物語だと思える。つきあい始めた頃、ローラは15歳なんだから、相手が25歳のオトコではねぇ、いろいろと・・・

このローラの娘のローズ・ワイルダーという人が、実にすごい。キャリアガールのはしりみたいな人で、都会に出て電話交換手というのか電信技士というのか、とにかく当時最先端の仕事で稼ぎ、やがて記事や小説を書いて作家・ジャーナリストとして活躍するのだけど、第二次世界大戦の一時期、自分の別荘に「立てこもった」ことがあるのだ。どういうことかというと、彼女はもともとルーズベルトのニューディール政策に反対だった。どうも、社会保障というものを軽蔑していたらしい。そして、戦時中ということもあって食料が配給制になったので、「私は配給手帳をもらわない」と宣言し、自分の田舎の家で採れる作物中心の自給的生活をしたのだ。彼女は所得税というものも軽蔑していたし、だいたいが気に食わない政策をとっている政府に税金なんか払いたくないからと、税金が発生するような文筆活動をやめてしまった。

こう書くと、まるで「無人島で一人でやっていく」のと近いような窮乏生活を送っていたのかと思いきや、彼女は自分の農地で取れた果物や野菜で瓶詰めやジャムなどの保存食をたくさん作り、それをたとえば隣家が屠殺した豚の肉と交換したり、ほかにもいろんな人に配って、ずいぶん贅沢な食生活をしていたのである。ようするに、税金を払わず、政府に対する抵抗の意思表示をしたかったのだから、貨幣のかわりに自家制ジャムやピクルスを「交換財」として、必要なものはちゃんと手に入れていた。

これって、ある意味国家にとっては「不穏分子」だし、実際FBIに目をつけられたりもしていたらしいのだけれど、実に天晴れなことだと思う。つまり、自分の食べ物を自分でまかなう生活には、国とか政府とかに頼らなくてもやっていけてしまう一面が、確かにあるとういうことを立証してくれたのだから。

『小さな家』シリーズの最後の作品、というよりむしろ「後日談」であるような『はじめの四年間』の冒頭に、いよいよ結婚して新生活を始めるローラとアルマンゾの印象的な会話がある。現在出ているものは、私が小さい頃読んだのとは訳が違うようだし、実際にどう書いてあったかよりも私がどう受け取ったかのほうが大事だから、記憶だけで書いてみる。

ローラはアルマンゾに、「私は本当はお百姓とは結婚したくなかった。農家の労働はきついし、作物は買い叩かれる。町の人は現金を稼いで、きれいな服を着て、百姓を田舎ものとばかにする」という意味のことを言う。

それに対してアルマンゾは言う。「だけど本当に自由で独立しているのは、俺たち百姓だけなんだ」と。「俺たちが食べ物を作らなかったら、商人は売るものもなく、町の人たちは生きていくことすらできないじゃないか」と。

ローズは、父であるアルマンゾの言葉を証明したといえるかもしれない。

さてわが身を振り返ると、もちろローズみたいなことをするつもりはないし、やれったってできはしない。だいたい、ローズが所得税なども軽蔑していたと知ると、ほとんど無政府主義といってもいいほどに徹底した自由主義なのだな、と感じて少しびびってしまう。ただ、「自給的な農業」だけでやっていこうとする私に冷たい視線を投げた人たちは、どこかそういう「自由さ」に対する警戒心が過剰だったような感じがしなくもない。

私は、おかげさまで東京を出てからは所得税なんてものがかかるほど稼いだことがないが、国民健康保険は払っている。自分自身、健康保険のお世話になったことも多々あるし、こんないい制度を普及することに反対する人がいるなんてアメリカは不思議な国だと思うけれども、ローズのような徹底した自由主義・個人主義の観点から見ると、社会保障もある意味では政府から個人へのいらぬ介入なのである。さらに私は、乏しい現金の中から国民年金だって払っている。まあ現金が乏しくてもやっていけるからではあるのだけど、いま現在、両親やそのきょうだいたちなど、私がお世話になった人たちの世代が受給者でもあるのだから、当分は年金制度につぶれてもらっては困る。

そんなこんなで、私はべつに「政府の世話にならなくたってやっていける」と宣言できるほど自立的にはなれっこないのだが、それでも、貨幣経済だけに頼って生きているときと比べたらずっと自由な気持ちでいられる。給料稼ぎの生活では「食べていけない」という表現は「お金がない」と同義だが、いまの生活では違うのである。お金がなくても、食べてはいける。

今の時代は流通がよくなって、自分の畑が凶作でも飢え死にする心配がないからやっていられる生活であることも自覚しているから、経済の発展やグローバリズムなどをむやみと悪く言うつもりもないが、どうしても本末転倒してお金だけが目的になりやすいのが人の常。それでも、自分の生活が「お金依存度100%」でなくなれば、いろいろと違う感じ方ができる。お金が目的になってしまわず、便利な「交換財」として使える範囲で生活していければいいのになとは、願うばかりだが。

ローズ・ワイルダーについては、『大草原のバラ』(東洋書林)を参考にしました。

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