いよいよ最後
とうとう最後の日なので、ネットカフェまで来るには来たが、何を書こうとも決めていない。
ただなんとなく、5年前と今とで私自身にどんな変化があっただろうか、と考えてみている。
5年前の春、八ヶ岳の農業学校に入った時点では、5年後の自分を思い描くことなどできなかった。極端な話、5年後に生きているかどうかも自信がなかった。「生きていけなくても、まあいいや」というぐらいの気持ちで――いいわけはないんだけど、どこかにそういう自棄に近いような気持ちがあって、都会生活に見切りをつけた。どこか緑に囲まれた場所で、独りでほそぼそと暮らしていける場所があったらと、漠然とした望みを抱いていたような気はする。
まさか、流れ流れた末に大分でパートナーを見つけることができるとは思ってもみなかったし、彼に影響されて自分も南の島を志向するようになるとは想像もつかなかった。どちらかといえば、冬は雪に閉ざされた家の中で、大鍋にシチューなどぐつぐついわせながら、糸を紡いでいる魔女のような老婆になった自分なら、面白半分に思い描くことができたのだけれど。
思えばそれまでは、25になった時は30の、30を過ぎる頃には35の自分を、期待をこめて思い描くことができていた。夫や子供という不確定要素がなかったから、仕事のスキルをあげることや人間関係を作ることなど、自分の能力さえ知っていれば、かなり見通しが立ったというのもあるだろう。だが40になる頃から、「いまが頂点で、あとは下る一方だ」という気がし始めた。それはもともとさして高くない私の能力がどうとかいうより、世の中が傾き始めていたからだ。
非正規雇用の人間が、少なめの収入と引き換えに多めの自由時間を手に入れることを選んで生きていける余裕が、なくなり始めていた。私が会社勤めをやめたのは90年代で、バブルがはじけたとはいってもまだ社会に富の蓄積が感じられた時代だったから、企業などに所属しない人間を遊ばせておく余裕が、まだ社会のほうにあったのだと思う。いろいろな働き方をしたが、週4日のバイト感覚で勤めた大学付属の研究所は、結構いい仕事ができたので長続きし、農業学校に入る直前まで足掛け8年ほどいた。だがその後規則が変わり、私のような1年契約の非常勤職員は「5年で雇い止め」、つまり5年以上は契約を継続しないことになってしまったと聞く。自分から辞めた私は、まあまあいい時代しか知らないということになるだろうが、逆に言えばそうした空気を感じさせる何かが、私の背中を押したのかもしれない。
いまも、週3日のバイトをしてはいるが、なんというか、日に日に世知辛く、けち臭くなっていく世間の風を思い知らされる。また、何かが私の背中を押しているのだ。今度は、南の島へと。
4日後には、沖永良部への二回目の旅に出る。移住へ向けて少しは話を詰めたいが、結局本当に決める権利を持っているのは、相方の唐沢氏だ。農業の経験から見ても、資金面から見ても、彼を頼みの綱としなければ生活できるわけがないのはわかりきっているから、この点では私はあっさり白旗を掲げている。唐沢氏が私に再度の旅を勧めるのは、急いで話を決めてこいというより、むしろ無駄足でもいいから、もっといろんなものを見て、もっと迷ってから決めろ、ということらしい。彼によれば、私は効率のよさを求めて寄り道をしなさすぎる、心に「遊び」がない、ということになるようだ。そんなわけで、帰りがけに奄美大島にも寄ってくる。以前(2004年頃だったろうか)、一度行ったことがあるのだけど、そのときは田中一村美術館と大島紬しか眼中になかったから、今度は別の目で見てこよう。
そんなわけで、どの島になるかはいまだに未定ではあるのだけど、離島で暮らすことになればネットカフェもないから、さすがに情報収集のためには自分のパソコンを買うことになるだろう。そうなったら、いずれブログも復活する日があるかもしれない。その頃には落ち着いて、何かはっきりとしたメッセージを打ち出せるような私になっているかもしれない。
このブログを読んで、コメントやメールをくださった方々には、復活の日にはお知らせを差し上げようと思う。その日があれば、また。
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